2008年 09月 24日
夜更けに。 |
ええと、相棒が好き。
相棒っていうのは、言うまでもなく水谷豊演ずる杉下右京と寺脇康文演ずる亀山薫コンビの活躍する刑事ドラマ。
既に単なる刑事ドラマの枠は超えて、社会に様々な時事問題を訴えている啓示ドラマ。
半端ない相棒フリークっぷりを周囲にも知らしめている私だけれど、来月から始まるはずのシーズン7にさきがけ、これまでのシーズンを全部DVDで見返しているんだけども。
なんか、なんで好きか本当に実感した。
シーズン6の薫ちゃんの台詞に「それでも…間違ってますよ」というモノがある。
何を間違っているのかといえば、娘を毒殺されたのに病死扱いされてしまった父親が、毒殺された事を所轄署に訴える為に、娘と同じ毒を使って死ぬということ。
ちなみに加筆すると、この父親は娘と二人家族で、妻はすでになし。さらには、余命幾許もない病に侵されている。
だから、たった一人の娘を失い、病にも苦しみ、生きる望みなんて…!と誰からも自殺を疑われないであろう推定57,8歳。
それでも。薫ちゃんは何が何でも自殺という選択肢を許さない。右京さんは殺人という選択肢を許さない。
右京さんは死ぬ権利みたいなものも、納得しきってはいないけれどもあるんじゃないかと思っている人ではと思うのだが、薫ちゃんは違うのだ。
私は自殺は嫌なのです。
嫌と言うより許せない。人間が誰から生をもらったとか、そんなことも関係なくて。もし途中で勝手に自から死ぬならば、最初から必要最小限以外の人間と関わってはいけないと思っている。
一人でも、そうでない人、自分が死ぬことにより、一粒でも涙を流しそうな人と、一分でもそれについて心を痛める人と、関わった時点で人間は最後の最後まで生きなければならないと思っている。
私の弟が死んだのは6年前。
自らの選択だった。
そのことによって、自分を責めた人を、私はそれこそ自分を含め、数十人と見てきた。弟を恨んだりは決してしてはいないけれど、彼は死ぬことによって何を得たのか。
寸断された人生の果てに安息などはない。
きっと無になりたかったのだろうと思うけれど、それでも。
確かに彼が愛した沢山の人達を、どのくらい苦しめることになったのか、そのことを先に知ることが出来ていたら、とてもそんな道は選べなかっただろうと思う。
何も出来なかった己を、今も呪う人を私は沢山知っている。
そこには勿論私も含まれるけれど。
断つということは、何に対しても自己完結ではないのだと、まだまだ幼く君は知らなかったのだろう。
君の親友が、幼馴染が、恋人が。君に思い残すこととして存在できなかった事を、どれほど悔やんでいることか。
そして私は知ったのだ。
自分に起きる悲劇より、誰かに起きてしまう悲劇の方が余程苦しいということを。
生きる事が苦しくても、それに耐え切れず、他の愛する人たちに苦しみを背負わすことがどんなことなのかを。
死ぬほど辛くても耐えるべきなんだと、誰かの辛さを知らないくせに奇麗事を言いたいわけじゃない。
ただ、私は色々な側面から知ってしまった。他の事を何も考える余裕がなくなる前に。
弟を失って絶望の底にいる私に、どう接したらいいのか悩む友の姿を。
ずたずたに傷ついた、泣き顔も泣き声も知らなかった父の咆哮を。
逆に涙を通り超して発狂してしまうんじゃないかと案じていた母が、泣くこともできずに静かに、それでも内心をボロボロにしながら堪えている姿を。
涙を見せずに気丈に振舞っていた彼の幼馴染が、カシャンと棺おけが火葬の扉に閉められた音と共に叫びながら落ち崩れていった姿を。
話が飛んだかもしれないが、
私は薫ちゃんのあの台詞に、声を上げて泣いた。
そう。それは絶対にしてはいけないこと。君は知らないだろう?
その後の事を。
それはお前のエゴだと、結局自分が苦しみたくないだけなんだろう?と言うのなら、それでもいいさ。
そう。私は自分がかわいい。苦しみたくない。
誰かがいなくなることによって嘆く自分など見たくない。
そして、誰かがいなくなることによって苦しむ人を見て唇を噛み締めるのは嫌だ。
それの何が悪い。
私は長生きするんだ。死ぬ時に私がいなくなっても、悲しむ人など一人もいないくらい、長生きするんだ。
相棒っていうのは、言うまでもなく水谷豊演ずる杉下右京と寺脇康文演ずる亀山薫コンビの活躍する刑事ドラマ。
既に単なる刑事ドラマの枠は超えて、社会に様々な時事問題を訴えている啓示ドラマ。
半端ない相棒フリークっぷりを周囲にも知らしめている私だけれど、来月から始まるはずのシーズン7にさきがけ、これまでのシーズンを全部DVDで見返しているんだけども。
なんか、なんで好きか本当に実感した。
シーズン6の薫ちゃんの台詞に「それでも…間違ってますよ」というモノがある。
何を間違っているのかといえば、娘を毒殺されたのに病死扱いされてしまった父親が、毒殺された事を所轄署に訴える為に、娘と同じ毒を使って死ぬということ。
ちなみに加筆すると、この父親は娘と二人家族で、妻はすでになし。さらには、余命幾許もない病に侵されている。
だから、たった一人の娘を失い、病にも苦しみ、生きる望みなんて…!と誰からも自殺を疑われないであろう推定57,8歳。
それでも。薫ちゃんは何が何でも自殺という選択肢を許さない。右京さんは殺人という選択肢を許さない。
右京さんは死ぬ権利みたいなものも、納得しきってはいないけれどもあるんじゃないかと思っている人ではと思うのだが、薫ちゃんは違うのだ。
私は自殺は嫌なのです。
嫌と言うより許せない。人間が誰から生をもらったとか、そんなことも関係なくて。もし途中で勝手に自から死ぬならば、最初から必要最小限以外の人間と関わってはいけないと思っている。
一人でも、そうでない人、自分が死ぬことにより、一粒でも涙を流しそうな人と、一分でもそれについて心を痛める人と、関わった時点で人間は最後の最後まで生きなければならないと思っている。
私の弟が死んだのは6年前。
自らの選択だった。
そのことによって、自分を責めた人を、私はそれこそ自分を含め、数十人と見てきた。弟を恨んだりは決してしてはいないけれど、彼は死ぬことによって何を得たのか。
寸断された人生の果てに安息などはない。
きっと無になりたかったのだろうと思うけれど、それでも。
確かに彼が愛した沢山の人達を、どのくらい苦しめることになったのか、そのことを先に知ることが出来ていたら、とてもそんな道は選べなかっただろうと思う。
何も出来なかった己を、今も呪う人を私は沢山知っている。
そこには勿論私も含まれるけれど。
断つということは、何に対しても自己完結ではないのだと、まだまだ幼く君は知らなかったのだろう。
君の親友が、幼馴染が、恋人が。君に思い残すこととして存在できなかった事を、どれほど悔やんでいることか。
そして私は知ったのだ。
自分に起きる悲劇より、誰かに起きてしまう悲劇の方が余程苦しいということを。
生きる事が苦しくても、それに耐え切れず、他の愛する人たちに苦しみを背負わすことがどんなことなのかを。
死ぬほど辛くても耐えるべきなんだと、誰かの辛さを知らないくせに奇麗事を言いたいわけじゃない。
ただ、私は色々な側面から知ってしまった。他の事を何も考える余裕がなくなる前に。
弟を失って絶望の底にいる私に、どう接したらいいのか悩む友の姿を。
ずたずたに傷ついた、泣き顔も泣き声も知らなかった父の咆哮を。
逆に涙を通り超して発狂してしまうんじゃないかと案じていた母が、泣くこともできずに静かに、それでも内心をボロボロにしながら堪えている姿を。
涙を見せずに気丈に振舞っていた彼の幼馴染が、カシャンと棺おけが火葬の扉に閉められた音と共に叫びながら落ち崩れていった姿を。
話が飛んだかもしれないが、
私は薫ちゃんのあの台詞に、声を上げて泣いた。
そう。それは絶対にしてはいけないこと。君は知らないだろう?
その後の事を。
それはお前のエゴだと、結局自分が苦しみたくないだけなんだろう?と言うのなら、それでもいいさ。
そう。私は自分がかわいい。苦しみたくない。
誰かがいなくなることによって嘆く自分など見たくない。
そして、誰かがいなくなることによって苦しむ人を見て唇を噛み締めるのは嫌だ。
それの何が悪い。
私は長生きするんだ。死ぬ時に私がいなくなっても、悲しむ人など一人もいないくらい、長生きするんだ。
by disegno
| 2008-09-24 02:09
| つぶやく-日常とか-